クロスベイスの中学生を対象にした学習サポート教室DO-YAでは、教科学習が終わった後に、講師と子どもとの間で原則1対1の「雑談」の時間がある。「じゃあ、今から雑談の時間やで~」って感じ。最近は、意図的に1対2,3人にする場合もある。学校での進路をめぐる生徒「面談」という雰囲気でもないし、日常生活の他愛無いできごとの情報交換という「会話」でもないし、互いの価値観をすり合わせる「対話」とも違う。どれもが適当に混ざり合った「雑談」なのだ。基本は伴走すること、励ますことだ。
ある中学2年生との「雑談」の様子。彼女は明るく何事にも前向きだ。でも学校の成績はよくない。DO-YAにきてから何か月か経ってから、講師ミーティングで、彼女は「文章が読めない」「意味が分からない」という結論になった。計算問題は、それなりにできるが文章問題はからっきしできない。国語も社会も大の苦手。「教科書を読めない子どもたち」の典型的な一人かもしれない。試行錯誤の一環で、昨秋から「雑談」の時間、簡単な新聞の社説を一緒に読み始めた。
まずは音読をしてもらう。分からない漢字や語彙を説明する。1行づつ、1段落づつ、何が書いてあるか、その意味をイメージしたり把握するために「雑談」を交わす。なかなか前に進まない。最初に読んだ社説では、読めなかった漢字は20以上あった。その漢字は宿題として、次週までに辞書で調べてノートに書き写してくる。確認小テストを行う。彼女は、そんな地道なことを黙々と続けている。なにより、こうした「雑談」に慣れてきたことが大きい。
年末の冬休み前に、ダメもとでこんな提案をしてみた。新書の『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』(菅野仁 著、ちくまプリマー新書)を取り出し、「○○、冬休みにこの本読んでみる?できなくてもいいよ。挫折してもいいし。どうする?」。クロスベイスでは子どもの名前を呼ぶときは、事前にどう呼ばれたいかを聞くことにしている。○○は名前だ(結果、ほとんど名前を呼んでいる)。「自分のことは自分で決めること」の経験を重ねることが、これから生きていく上でとても重要だと考えているので、講師たちは小さなことでも、できるだけ子どもたちに選択させる機会をつくるようにしている。
彼女は、この提案にいとも簡単に「うん、やってみる」と応えた。ついでに、付箋とともに課題として①印象に残った箇所を3つ抜きだして書くこと、②違和感や反論がある個所を3つ抜きだして、その理由も書くこと、③500字程度の書評を書くこと、を出してみた。
休み明けのはじめての「雑談」の時間までに彼女は渡した本の半分を読み終え、次の週までに157ページを完読した。本には付箋がたくさん貼ってあった。課題についても彼女なりの文章で書いてあった。聞くと、休み明けの1週間は学校の休み時間も使って読んだとのこと。正直驚き、感動した。一つの社説を読み切るのにも3回に分けてやっとできるかどうかだったのに。今回の読破も泥縄式だったかもしれない。もちろん彼女にとっては生まれて初めての経験だったにちがいない。
「○○、あの本読み切ったん?すごいなあ!えっ~課題も書いてきた?」
「学校は宿題多すぎ!休み中に半分しか読めなかった。残りは学校の休み時間も使って読んだよ」
「〇〇が学校の休憩中に本を読んでたら、周りの友だちからへんに思われたやろ?」
「何人かから、どうしたんって言われたけど。そんなん〇〇は気にせーへんねん」
「そうやなあ、12月に体験活動で立命館大学にいったやんか?その時にいろんな場所で大学生が一人でも勉強していたやん。ああいう姿がカッコエエよなあ」
「で、書評って何なん?本を人に紹介する文章やろ。でも難しいわ」
そう言いながら、「いっぺん書いてみてや」という目線を送ってきたので、「ええよ、来週私が書いてきて話しょうか」となった。以下はその書評の最終箇所。
「本書は単なる人間関係にまつわるハウツー本ではない。その秀逸さは、人が自分自身の自由を発展させていくためにも、他者の自由と折り合いをつけていくための『ルール関係』の構築が不可欠であるという、いわば共存・共生の普遍的な原理から考察されているところにある。読者は本書を通じて『友だち幻想』から抜け出る大きなヒントを得るだろう。」
先日は、この個所について「雑談」を交わした。中学2年生と「自由の相互承認の原理」について「雑談」していたことになる。面白い。この日、ある理由から車いすでこざるをえなかった、一緒に勉強をしている生徒が帰宅する際に、彼女は自分から名乗り出て送っていくことになった。自分の家の反対方向にもかかわらず。
風が吹きすさぶ寂しい夜の生野コリアタウンを、車いすを押していく彼女の後姿を見ながら、すがすがしい気分になった。彼女の夢は保育士になること。きっと心優しい保育士になるにちがいない。それまで限られた時間だが、しっかりとサポートしていきたい。