【クロスベイスに関わる人のコラム「交差点。」】vol. 11
秋田光彦
浄土宗大蓮寺・應典院住職 パドマ幼稚園園長
クロスベイス アドバイザー
クロスベイスに集う人の歩みや思いを届けるコラムシリーズ、「交差点。」です。
人と地域をつなぐ、お寺の終活センター「ともいき堂」建設へ
政令都市における無縁仏は、大阪市が全国一である。信じがたい数字だが、12人に一人の割合で身元がわからない、あるいは親族が引き取りの拒否をする。行き場を失ったお骨は、しばらくは斎場のロッカーで眠り、その後阿倍野の公営墓場にて合祀される。自治体によってお骨の行方は様々で、中には産廃物同様の扱いもあるらしい。身寄りのないお骨も不幸だが、身寄りがあっても路頭に迷うお骨が私にはもっと不憫に思える。お金がない、というより、生前の関係性がない、ご縁がないのである。
内閣府の調査によれば、単身高齢者の男性の会話の頻度は、(電話や電子メールも含め)1週間に1回あるかないかが10人に一人、「困った時に頼れる人がいない」のは5人に一人だという。世間と没交渉であれば、当然孤独死リスクは高まる。大阪市の単身高齢者は全国一だが、ほぼ並行して孤立率?も高いに違いない。無縁仏はますます増えていく。
どうすればいいか、解決策は見当たらない。そもそも福祉も法律も、死者を対象にできていない。⽣活保護法や⾏旅病⼈及⾏旅死亡⼈取扱法による措置は一部のことであって、大阪市のように、身元もはっきりしている、葬式のお金もあるが、「死後を託す者が不在」というケースは、これまで想定されてこなかった。
あるいはなんとかしてやりたいと思う親族がいたとしよう。しかし、死後の実務はわからないことだらけだ。まずお骨の納めどころが最重要だが、亡くなった後のご遺体の安置から、葬儀やら火葬場の手続き、そこに宗教者が絡むなど、葬送にまつわる大量の責務に立ちすくむ。血の繋がった親族といえど、普段の関係性なくては、二の足を踏むのはわかるような気がする。
役所に葬送相談センターのようなところがあってもいいはずなのだが、介護福祉はあってもお墓や葬式のことになると、公は踏み込めない。多死と孤立の現状に、法も制度もついていけていない。民間の終活ビジネスは専門分担化されていて、なかなかトータルに対応できないのだ。
大阪には3400もの寺院がある(全国2位)。多くの寺には墓地がセットになっており、その強みは、死後最大の課題である「埋葬」を受け持つことができる点だ(墓埋法という法律によって、埋葬は自治体か宗教法人しかできない)。しかし、従来の檀家制度が根強く、家制度が次第に衰退しているにもかかわらず、お寺のお墓は「空き地」のままだ。新たな受け皿としてのお墓、福祉としての葬送やとむらいといったテーマが浮かび上がるだろう。
あるいは、死んでから、ではなく、お寺は生前に相談したり、学んだりする拠点としてふさわしいのではないか。信頼できる相談員がいて、必要があれば「生前契約」(単身者の遺言執行する第三者契約)にも対応する。自分の死後について率直に話ができるのも、お寺ならではの特性ではないか。
無縁仏の背景には、関係の喪失や不安が大きく横たわっているが、そんな信頼関係が生まれれば少しずつ軽減できるかもしれない。役所任せではなく、お寺を中心に市民の力で賦活させる。ご縁を紡ぐのである。
上町台地の片隅で、大蓮寺と應典院という二つのお寺が、「おてら終活プロジェクト」を立ち上げて間もなく1年。拠点となる新しいお堂「ともいき堂」もクラウド・ファンディングで資金調達しながら、今月完成した。これからは社会貢献ビジネスのスキルを使って、地域へとつながっていく。
人は何かの縁あって存在しているのだから、そもそも「無縁」の人はありえない。今の状態が「絶縁」なのだとしたら、もう一度市民の英知を集めて、地域と「結縁」すればよい。大阪は生き甲斐もあれば、死に甲斐もある。そんな都市にしなくはならないと思っている。
*「おてらの終活」を紹介した原稿所載の「ともに生きる仏教〜お寺の社会活動最前線」がちくま新書から発売中です。