【クロスベイスに関わる人のコラム「交差点。」】vol. 12
康純
大阪医科大学神経精神医学教室准教授/精神科医
クロスベイス アドバイザー
クロスベイスに集う人の歩みや思いを届けるコラムシリーズ、「交差点。」です。
アドバイザーを仰せつかっている康といいます。何故私がアドバイザーなのか?私にできることは何なのか?自分ではあまり見えていません。これからの色々な関わり合いの中で自然に動き出すことができればいいのかな?と思っています。
私は生野区で生まれ生野区で育ちました。巽で生まれて、勝山に引っ越し、小学校6年生の時に再び巽に引っ越してきました。今でも実家(誰も住んでいませんが)はロート製薬の隣にあります。父は小学校を卒業する前に済州島から日本に出てきた人です。母も同じ済州島出身です。父の仕事はヘップ(サンダル製造業)でした。忙しくなると工場に降りてよく手伝っていました。小学校時代から「康」を名乗っています。生野にはたくさん在日コリアンの人がいますし、誰が在日かというのはほとんど分かっているのですが本名を使って学校に通っている人はあまりいませんでした。父は仕事上「安田」を使っていましたが、子どもには本名を名乗らせたいという明確な考えを持っていたようです。
中学までは地元の公立を卒業して、公立高校の受験に失敗し、私立高校に進学しました。昔から本好きで、高校時代は北杜夫とヘルマン・ヘッセが大好きな文学青年的な面があった一方で、本多勝一の「殺される側の論理」や「貧困なる精神」に強い影響を受けて、大学は哲学科に進んでジャーナリストになることを考えるようになりました。これを父に伝えると完全に一蹴されました。絶対に就職できない、大学に進学するなら法学部で弁護士、経済学部で会計士、医学部で医師の内から選ぶこと、それ以外なら家の商売を継ぐというのが父の意見でした。それまでかなり好きなようにさせてくれていましたが、この意見は絶対でしたし、実際に私より上の世代の人で一般企業に就職した人を私自身も知りませんでした。暗記は不得意、経済に全く興味なかったので医学部に行って精神科医になることを選択しました。
消極的な進路選択でしたし、元来のサボりでいい加減なところが前面に出て2年間浪人してやっと現在の大学に入学できました。浪人していた2年の間、韓国に行くことも考えました。しかし、これも父から否定されました。この頃は軍事政権下で、ソウル大学の医学部に留学中、スパイ容疑で投獄された人がいました。その人の父親は、自分の商売をたたんで、私の父の工場で働きながら何度も韓国に行って嘆願活動をしていたのを目の当たりにしていました。自分の意見をストレートにぶつけてしまう私は必ず捕まると考えるは当然ですし、私自身も日本で医学部に通らないからという逃げ腰な気持ちがあったことも否めません。
大学在学中に父が亡くなります。亡くなる前には本人の希望でしばらく済州島に帰っていた時期もあります。父がそんなに強い望郷の念を持っていたことに驚かされました。父も読書家で、松本清張などの小説も読んでいましたが、定期購読していたのは「朝日ジャーナル」と「世界」、マルクスの資本論は当然のように家にありました。そういえば父の最も好きな詩はカール・ブッセの「山のあなた」でした。この頃に父の会社は倒産しました。債権者会議で怒鳴りつけられながら母と二人で土下座して、商売は続けられませんと頭を下げ続けたことは鮮明に頭の中に残っています。収入が途絶えて小遣いがもらえるはずもなく、アルバイトで自分の生活費をまかなっていました。留年中の1年間、喫茶店のマスターをしていたこともあります。その喫茶店のオーナーが酒好きで、しかも大阪や京都の有名なBarに毎日のように通っており、店を閉めてからよく一緒に酒を飲みました。この頃から今までBar通いの習慣は続いています。
やっと念願の精神科に入り、これからは一生の仕事として真剣に取り組もうと思い、与えられたことはほとんど全て断らないことに決めました。2年間岡山県の単科精神病院での勤務を経て大学に戻り、患者さんの診察、学生の教育、研究活動を続けてきました。大学の医学部というのは昔ほどではないにしても古い体質が残っています。助手として戻ったときに同じ在日コリアンの先輩からは講師に昇格できるとは考えない方がいいと言われました。高校受験から成功した体験はあまりなく、国家試験も含めてギリギリで通過した方ですから、出世したいという気持ちは全くなく、とにかく与えられたことをしっかり受け止めて自分なりにできることを精一杯することだけを考えてきたと思います。医者というのは職人的な要素があります。診療のスタイルは医者によってかなり違います。今から振り返ると、私の診療のスタイルには在日コリアンとしての立ち位置、水商売のアルバイトをしていた経験、実家が倒産したときの経験などが混じり合ってできあがってきていると思います。
今から20年以上前、それまで想像もしていませんでしたが、性別に違和感のある人たちと精神科医として関わることになりました。自分から進んで関わろうとしたわけではなく、上司からやってみるよう言われたからという消極的なきっかけだったのですが、これが私の大きな転機になります。私は在日コリアンという面ではマイノリティですが、男性で医師という特権を持っていることに改めて気づかされました。医師としての社会生活の中で、在日であることを前面に出すことはありませんでした。しかし、マイノリティ・ストレスの話をするときには、自分の在日コリアンとしてのマイノリティ・ストレスに向き合って、今までの経験を踏まえながらも、いわゆるセクシュアル・マイノリティの人たちが受けるマイノリティ・ストレスとの違いを感じ取ることが必要だと感じられます。家庭の中でも受け続けるマイノリティ・ストレスは非常に強いものだと思います。改訂されたWHOの診断基準では、性別に対する違和感を持つことを精神疾患から外しましたが、それ以前から性別に違和感を持つ人に対応しているときには医師としての立場ではなく、この社会を構成しているメンバーとしての視点が重要であると考えるようになりました。
精神科医という職業人として在日を意識することなく仕事をしてきた私が、性に対応するようになったことでクロスベイスのアドバイザーをしている「土肥いつき」さんと出会い、性についての知識を深めていく中で自分の在日というマイノリティの部分に改めて直面するようになりました。さらに、性別に違和感のある子どもたちの関わりから今井貴代子さんや金和永さんと出会い、宋悟さんを代表とするクロスベイスとの関わりに繋がっています。
まだまだ忙しく突っ走っている最中ですが、あと数年で60歳になります。生野は私の原点です。自分なりに細くとも長くクロスベイスとの関わりを続けていくことができれば、いつか生野に自分なりの恩返しができるのではないかと思っています。