こんにちは、クロスベイススタッフの竹尾尚哉(たけお なおや)です。
4人兄弟の末っ子で、自分より年下の人との関わり方がほとんどなかったため苦手と思っていましたが、大学生になり気づいたら子どもたちに囲まれる活動に多く参加していました。現在は、関西学院大学大学院人間福祉研究科博士前期課程に所属しながら、事務局スタッフとして働かせていただいています。中学から関学なので、もう11年目を迎えました。飽きることなくもう無心で通っています。そんな私の紹介をさせていただきます。
私は大阪市内で生まれ、寛容な父と教育熱心な母のもと4人兄弟の末っ子として育ちました。あまり自分のことを自分で決めたことはなくて、親に言われたことをし、兄弟と同じ習い事をしていました。月曜から金曜まで学校終わりはサッカー、ピアノ、習字、学習塾に行き、土日は家族との時間を過ごす。兄弟が親に褒められているのが嫌で「俺も褒められたい!俺の相手もして!」という負けず嫌いや嫉妬で習い事をしていたと今は思っています。そのため、向上心はそれほどなく、習い事の時間以外で練習や努力をしませんでした。
学年が上がるにつれて学習塾の回数が増え、他の習い事を辞めざるを得ず、最終的には学習塾だけになりました。「志望校」なんて親の志望校なわけで、何も迷うことなく関西学院中学部の入学試験を受けていました。入学試験前日から怪しかったのですが、試験当日の朝、喘息発作。試験1日目はゼーゼー言いながら保健室受験。2日目は死ぬ気で体力測定を含めた試験を乗り越え、晴れて合格。合格発表後の説明会後、学校の門から約15km離れた家の近くの病院までタクシーで行き即入院。受からなかったら笑い話にすらならない良い経験でした。
中学入学後はサッカー中心の生活で、勉強は全くしませんでした。スタートダッシュに失敗したままずるずると中3になり、高校進学判定会議に引っかかってしまいました。担任の先生に怒られ追加で何とか条件を満たし進学することはできたのですが、3年間ほとんど勉強しなかったことに対する反省はしなかったと思います。「勉強する意味」や「自分の関心があるもの」など考えたことも感じたこともなかったです。
高校生になり、「帰宅部でアルバイトして遊びたい」という漠然とした高校生活を思い描いていました。しかし、両親と友達からの反対で、心折れてサッカー部に入部しましたが1年で退部。高校2年生から晴れて帰宅部になれた私は、仲の良い友達とフットサルやアルバイトをしながら怠惰な日常を過ごしていました。引き続き勉強はしていなかったため成績は下がっていき、最下位に。そして高校3年生の大学進学判定会議の日に担任から電話で「大学に進学できない。」と伝えられました。これからどうするか。就職か大学受験か。どちらも1mmも考えたことがなかったので、何もわからない、パニック。みんなのもとに戻りたいのと関学の人間福祉学部社会起業学科には興味を持っていたので、受験をすることに。担任と母に頭を下げた時に、自分への情けなさから涙が溢れた。
そんなこんなで浪人がスタート。大学受験がいつあって何教科あってとか何もわからない上に、中1から勉強していなかったため本当に0からのスタートだった。浪人1年目は失敗。「やったらできる」と楽観視していました。「もう1年浪人させてください」と親に頭を下げた時また涙が溢れた。この涙をきっかけにして、受験もそうだけど自分は何がしたいのか一度立ち止まってみました。今までなんとなく勉強をし、勉強についていけなくなったら放棄し、勉強をする意味も感じられずどん底に。高校生になり自分から自由な選択肢を選んだものの、それは自分自身の将来も放棄した怠惰な時間を過ごしていました。そして今、きちんと立ち止まって過去を振り返り、現状を把握した上で、自分自身の未来を考えた。なぜ大学で学びたいのか。
私が高校生の頃に1つ年下の福祉的課題を抱えた友達に出会いました。そばにいてあげるしかできない自分に悔しさを覚えた。その時に社会問題を学際的に捉え、その課題解決のためにアクションを起こすことを目指す学部・学科が関学にあることを知り、「大学で学びたい」と初めて強い思いを持ったことを改めて思い出し、きちんと自分自身に向き合いながら勉強をしていくことを決意した浪人2年目でした。成人式の参加も見送り、遊ぶことなく勉強をし続け、無事志望学科に合格。怠惰な自分に対し、怒ることも多かった両親でしたが、いつも私が選ぶ選択肢に対して見守ってくれていたことにも気づき、人生で初めて「心から感謝」したような感覚を覚えています。
大学生活は特に勉強のことでワクワクしていました。授業での質疑やプレゼンなどに意欲的に取り組む「二浪のガチ勢の竹尾さん」(陰で言われていました(笑))として頑張っていました。二回生までは授業以外でも先生や助手や上回生の方に色んなフィールドや団体に連れて行ってもらったり、実践や活動に参加させてもらったり多くの刺激的な機会を与えていただきました。
ホームレス支援、限界集落とそこに住む子どもたち、被差別部落、地方での6次産業、タイ都市部のストリートチルドレン、タイ国境沿いの国籍のない子どもたち、被災地支援、離島のソーシャルワーカー、民生委員・児童委員インターンシップ、外国人と防災、ユニバーサルデザイン、外国にルーツを持つ子どもたちの学習支援、離島の子どもたち。。。
あげたらキリがないほど多くの現場の方々やその利用者の方も含めてお世話になり、勉強させていただきました。
日々、「自分の無知さ」を自覚し、現場と机の上を行き来する大学生活の中での「学び」は胸がゾクゾクする感覚があってそれがさらなるモチベーションになっていました。怠惰な部分は残っていたので成績は良い訳ではなかったが、意欲的に学んだのは人生で初めて。しかし、色んな勉強や活動をしていく中で自分が一番関心のある分野がわからなかった。ゼミが始まってからもパッとしないまま三回生の夏休みに。「就活」スタートの合図が静かに切られる時期。自分は卒業後どうするのか。どう生きていくのか考えた時、社会起業学科の理念が自分の生き方の根底にありました。その中で専門性を見出していきたいし、もっと現場に貢献できる人材になりたいとゼミの先生に相談すると、大学院に進学することを勧められました。何もかも未熟なのは承知の上で挑戦しようと決意しました。
冷静になって関心のある領域のことを考えた時、日本社会で生きる子どもたちの悩みや葛藤に寄り添っていきたいと思いました。当時、外国にルーツを持つ子どもたちの学習支援活動に参加していたのもありますが、大きいのは大学生の時に母を亡くしたことがきっかけです。私は塞ぎ込んでしまい、学校にもあまりいけなくなり、事情を知る友達の気遣いもとても嫌でした。どうすることもできない絶望にただただ打ちひしがれていた時、声をかけてくれた友達がいた。ただ私の話を聞いてくれて、寄り添ってくれた。事実を完全に受け入れきれてはいないが、精神的に少しずつだが立ち直っていけました。もちろん自分だけではなく、色んな人が色んな経験をしている。その中で特に子どもたちは、自分自身ではどうしようもない環境に取り巻かれています。自分自身に何ができるのか。多分、何もできないかもしれない。しかし、寄り添い一緒に考えたり悩んだりすることはできると思います。クロスベイスでの活動がその一助になれるよう私も関わり続けようと思います。