クロスベイスに関わる人のコラム「交差点。」vol. 4
榎井縁 理事
クロスベイスに集う人は、なぜクロスベイスに関わり・交わったのか。その歩みや思いを届けるコラムシリーズ、「交差点。」です。
ナマステ。クロスベイスのふんわり理事をしている榎井です。わたしは、小さい頃のいじめの経験から、集団のなかにおかれると自分の役回りみたいなものを、やりたい自分やなりたい自分より優先する傾向があり、そのことに今は自覚的です。好きなことをやったらいいじゃん(いきなり横浜弁)、やりたい道にすすんだらいいじゃん、などといわれて戸惑ったり、首をかしげてしまう子どもを見ると、昔の自分が投影されているような気持ちになります。ただ、そういったところから解きほぐされていくには、社会のしくみみたいなものが見えてくるようなプロセスが必要だと思います。奪われた本来自分に備わっている力を取り戻す(エンパワメント)過程といってもいいでしょう。わたしは、そうした「場」とか「役割」としてのクロスベイスを期待します。
わたしは大人になってから関西に移住し、神戸と大阪での生活を合わせると人生の半分以上を関西で過ごしています。ただ、アイデンティティは、生まれて大学卒業まで過ごした横浜にあります。横浜をおしゃれとかハイカラ(死語?)と思ったあなた、商業ベースに侵されていますよ。特に生まれて3、4歳まで過ごした中区山下町という中華街の東外れでは、子どもながらに妖しい仲間(華僑や在日コリアンの子、米軍基地従事者の子、障がいを持つ子、婚外子といわれた子)たちととても楽しく不思議な時間を過ごしていました。幼稚園に通うときに渡る川には船上生活をする子どもの姿がありましたし、道の向こうは日本三大ドヤ街の寿町がありました。思えば様々な“事情”を抱えた人たちが、それを問われることなく棲めるような空間でした。シロツメクサを編んだり、ローラースケートで遊んだり、言語的によくわらない歌を歌ったりと、互いの違いや背景を認識はしていましたが、その“ごちゃまぜ”感を謳歌していました。
移動(引っ越し)による失楽園にいじめが加算して、自己防衛のための位置取りを意識しはじめたのが小学校高学年からでした。“まわり”がいつも気になり、じぶんに“ダメ”というレッテルを貼ったのも同じ時期です。たくさんの意味ある廻り道をして、そこから脱出することができましたが、ここで語るには紙面が足りません。第三世界といわれる場で、不条理なものに挑むごくごく地道な生活(しかも静かな怒りを内包した)を眼にしたとき、何かに怯え縮こまっている自分の滑稽さに気づいたのです。そんな出会いで、わたしは解放されました。
自分がキライという子どもがいたら、原因は100%社会にあります。子どもの力を奪うような社会と闘う、クロスベイスのふんわり理事をしっかりと務めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。