クロスベイスに関わる人のコラム「交差点。」vol. 7
古川正博
全国人権教育研究協議会事務局・大池中学校元教員
クロスベイス アドバイザー
クロスベイスに集う人の歩みや思いを届けるコラムシリーズ、「交差点。」です。
おとなが楽しそうに生きていなければ、子どもも楽しいわけがない!
1. はじめに ~元不良少年の回想から~
「こんな貧しい暮らしから抜け出したい」。ずっとそんな思いを抱いて、私は島根県西部の広島県境、中国山地のど真ん中で隣の家は1軒しか見えない山村の貧しい出稼ぎ農家の子として育った。高度経済成長期と減反政策で小さな田畑と炭焼きでは暮らしが立たなくなり、父は私が物心ついた頃から大阪や神戸に出稼ぎに行き、田植えと稲刈りの農繁期、盆と正月しか返ってこない人だった。母は農閑期には日銭稼ぎの道路工事で働いた。学校帰りに工事現場で働く母の姿を友だちに見られると「このくそババア。あんな格好で働いているところを友達に見られて恥ずかしいやろが」と罵倒していた私だった。「ヨイトマケの唄」を聞くと、今年7月七夕の日に92歳で旅立った母の姿を思い出し、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
親から「お金がないから大学にはやれない」と言われ続けて育った私は、中学・高校時代は将来に希望が持てず、いっぱしの不良少年で、高校時代には何度か懲戒処分も受けた。高2の冬休み初日に不良3人組で夜の校長室に忍び込み、校長の机にウンコをしたことがすぐにばれて自宅謹慎。年末年始の冬休み中、朝から晩まで校長室で日本史のプリント学習を課せられたこともあった。
そんな不良少年に将来への希望を教えてくれたのは高3の時の担任だった。「この子を大学に行かせてやってほしい」。盆に里帰りしている父を説得しに泊まりがけで家庭訪問に来た先生は、カバンから書類を出して「親は1円も出さなくても大学に進学する方法がある」と日本育英会奨学金に加え、新聞配達をしながら新聞社の奨学金を得て大学に進学するという方法を説明してくれた。
私は高3の盆過ぎから受験勉強に取り組み、当時授業料が年間12,000円と全国で一番安かった大阪市立大学法学部に進んだ。「これで学歴のない親のような貧しい暮らしから抜け出せる」。将来に希望を持って1972年3月、高校の卒業式にも出席せず堺市の新聞販売店に住込み、朝3時から朝刊配達、昼間は大学で講義、夕方4時から夕刊配達。夕食後は翌日朝刊に入れる広告チラシのセット作業。土日は新規購読者開拓の戸別訪問という生活が始まる。札幌冬季オリンピック、連合赤軍浅間山荘事件、沖縄返還、田中角栄内閣成立の年だった。
2. 部落との出会い
そんな中で偶然出会ったのが、大学の南側を流れる大和川の堤防と河川敷に江戸時代中期の大和川付替工事によって形成された被差別部落だった。主な生業は廃品回収という浅香地区で部落解放運動を本格的に開始した青年リーダーから、当時高校進学率が大阪平均より大幅に低かった子どもたちを「全員高校に進学させるために中3生24人を解放塾で合宿して勉強させている。手伝ってくれへんか」と頼まれたのだ。私は20歳、青年リーダー・故山本義彦は29歳だった。あわせて手伝い始めた識字学級には、母と同年齢の人たちが鉛筆を強く握りしめて読み書きを学ぶ姿があった。
新聞社奨学会から前借りして支払った滑り止め私立大学の入学金16万円の借金を返済できたので新聞配達を辞め、大和川河川敷のアパートに住んで様々なアルバイトをしながら大学に通い、週3回夜に高校生を集めての学習会を手伝うことになる。「市立大学はすぐ隣にあるのに、うちのムラから入学した子は1人もいない」「部落のことを少しでも理解する君に教師になってほしいんや」。私は文学部教員免許課程も受講し、1978年4月、西成区の鶴見橋中学校で新任社会科教員となった。鶴中は当時行政から校区全てが同和地区指定され、長橋小学校で始まったばかりの民族学級を経て本名で生活する在日コリアン生徒が約20%在籍する学校だった。日中平和友好条約が結ばれたこの年、2年3組担任となった私は24歳、子どもたちは14歳だった。
3. 中学校教員として
当時の鶴見橋中の子どもたちは暴力と破壊、シンナー、喫煙や飲酒、バイク暴走、家出など「荒れ」ていた。鶴中への転勤を忌避する現役教員が多かった時代で、西成や鶴中のことは何も知らずに就いた長崎、山口、広島、岡山、福井、三重、岐阜(今制作をめざしている映画「かば」~西成を生きた教師と生徒ら~のモデル「かば」先生は岐阜出身)そして私は島根と地方出身の若い教員たちは「荒れ」る子どもたちとまともに向き合い悪戦苦闘した。「たとえ高校に行っても就職の際には拒まれて、親と同じ靴やベルトの仕事に就くほかはない」と「荒れ」る部落の子。「親や兄姉の時代の『焼肉屋かパチンコ屋、ヤクザになるしか道はない』よりはましになったが、たとえ大学を出てもどの会社や役所からも就職を拒まれる。医学部以外は大学なんか行っても意味がない」と苦しむ在日コリアンの子。「どうせ何をやってもムダだ」と諦め、学校や教員への嫌悪、授業からの逃避、学校秩序への反抗、遊興とシンナーへの逃避をくり返しながら、教員に向かって「お前らに俺らの気持ちが分かるか」と敵意にも似た眼差しを向けてくる。
教員というのは何だかんだいっても学校への適応力が高かった人間ばかりだ。そこそこ普通の家庭で育ち、それなりに成績優秀できた人間が多い。その位置から「こう言えばわかるだろう」「それが常識だ」と思うことが、鶴中の子どもたちにはなかなか通じずに頭を抱える。当時私たちは「非行は宝」という同和教育のテーゼなんて意味が分からなかったが、上からものを言うのではなく、子どもたちと横並びになりながらひたすら追いかけ、家庭に入り込んで話し込み、一緒に怒り、悲しみ、喜び、泣きながら走り回ることしかできなかった。そこで私たちは子どもたちの暮らしの後ろにあり、見ようとしなければ見えない、聞こうとしなければ聞こえない「差別の現実」に否応なしに向き合うことになる。想像さえしなかった苛酷な環境で日々子どもたちが生きていること、それが見えず聞こえず狭い自分の尺度だけで「このガキども、ふざけるな」と勝手に憤慨していた自分の間違いに気づかされる。こうなってしまう何かがこいつらにはあるんだと気づいていくことになった。
私たちは、時には反抗し、生意気な態度をとる子どもたちに対して決して背中を向けることなく、真剣に怒り、どんなに忙しくてもとにかく話しを聞いた。そしてひたすら励まし、勇気づけ、力になろうと努力し続けた。そんな子どもたちが置かれた位置、「差別される側」からものごとを見ると、それまでとは全く違う世界が見えてくることに気づく。これまで学んで身につけてきた知識、教養、世間の常識などは、実は「差別する側」にあったのではと考え始める。「差別の現実から深く学ぶ」ことを通して私たち自身が変わっていく経験をすることになった。さらに「部落や障害者、在日コリアンなど『差別される側』に生まれてきたのは、私の過ち・責任なのか?」と教育、学校、社会、歴史、政治、文化を問い、日本や世界にそれを発信し続けるかっこいい魅力的な人たちにたくさん出会うことになった。そうした中で先輩教員から言われ、33歳だった1987年から1995年まで、鶴中に在籍したまま当時の全国同和教育研究協議会(全同教)事務局の仕事をすることになった。
ところで大阪市教育委員会が、周辺の大規模中学校を適正規模にするために住吉区の地下鉄車庫を撤去した跡地に新中学校を建設することを決定したのは、私が学生だった1975年のこと。しかしそこが浅香の住所だったことから反対運動が起こり、実際に新中学校がスタートするのは実に20年後の1995年、阪神大震災や地下鉄サリン事件の年だった。浅香の子どもたちが通うことになる新設の我孫子南中学校に私が就いたのは41歳の時だった。PTA役員のほとんどが学校新設に反対した「同和教育反対派」保護者という困難を予想させる開校だった。この親たちがのちに「同和教育は部落の子や障害児、在日コリアンの子やヤンチャしている子ばかりを大事にする教育だと思っていたけど、それは間違いだった。うちの子2人ともとても大事に育ててもらったことで、同和教育は全ての子を大事にする教育だと身に染みてわかった。これからは同和教育を応援する」と言ってくれたのは8年後のこと。私はその年「部落が校区にない中学校へ」と転勤希望を書いた。
希望通り校区に部落のない生野区大池中学校に就いたのは2003年4月、私は49歳だった。区民の4人に1人が在日コリアンという生野区にある大池中にも韓国・朝鮮にルーツを持つ子が多数在籍し「荒れ」の歴史を持つ学校だ。子どもたちの「荒れ」には慣れている私だったが、いちばん困惑したのはPTA会長選出を巡る日本人と在日コリアンの保護者間の厳しい対立・葛藤だった。PTA会長選出にあたり、それまでの日本人会長が仕事の都合で辞めるため、新たな会長を選ぶことになったのだが、誰もなり手がいない。そこへ在日コリアンの親父が「私がやってもいいよ」と手を挙げたのだ。ところが次の日から歴代の日本人元会長2人が毎晩のように学校を訪れ「会則には書いていないが、大池中のPTA会長は慣習で日本人がなることに決まっている」と管理職と生徒指導主事になった私に迫った。これを聞いた在日コリアン側は当然「それは在日はずしで差別だ」と激しく憤ることになる。日本人保護者と在日コリアン保護者の間に大きな亀裂が生じ、緊張が走った。おとなたちの眉間にしわを寄せた長い話し合いの結果、辞める予定だった日本人親父が会長を続け、手を挙げた在日コリアン親父が副会長ということで決着したのは10月末のことだった。
むかついていた私は酒の席で冗談半分に「こんなことが子どものためになるわけがない。日本人と在日コリアンが一緒になって何かおもしろい、楽しいことをやろう」と提案した。そして対立した当事者の日本人と在日コリアンの親父、校長、教頭、私とで結成したのが「大池中学校PTAおやじバンド」。2005年10月のことだった。以来14年間「おやじバンド」は生野区を中心に各地で200回をこえるライブ&トークを行ってきた。バンドメンバーの本名で生きる在日コリアンの親父が初めてPTA会長に選出されたのは2006年のこと。「PTA活動を停滞させて『在日が会長になったからだ』と言わせてはならない」と日本人役員も在日役員も教員も、懸命に努力した1年間だった。その後の大池中は日本人も在日コリアンも関係なく人物本意で会長に選出、ある年には女性が会長に選ばれるなどPTA会長や役員選出に国籍やルーツ、性別は何の問題もなくなった。
「大池中PTAおやじバンド」が伝えたいメッセージは二つ。一つは「おとなが楽しそうに生きていなければ、子どもも楽しいわけがない」。もう一つは、「社会にある人と人を分け隔てる『イムジン河』を両側からこえていこう」。教育が理論や理屈、抽象的で観念的なものでは前に進まないし、状況の改善も図れない。実際に生きる人たちの要求や願いを受け止めながら、何よりも現場で常に具体的で実践的なものとして取り組まなければならないことを体に染み込ませてもらった37年間の教員生活だった。私は2014年3月定年退職。今は(公社)全国人権教育研究協議会事務局の仕事を手伝っている。
4. 宋悟さん、そしてクロスベイスと私
1989年から近畿大学を中心に実施されているタイ・バンコクのスラムの子どもたちを支援するスタディ&ワークツァーに、私はこの17年間参加してきた。クロントィ・スラムで貧困と差別、虐待や家庭崩壊、犯罪や麻薬、暴力やレイプなどによってつまずいたり、つまずかされたりした子どもたちを農村の豊かな自然の中で共同生活しながら立ち直らせようとする「生き直しの学校」を訪ねる旅で、今年も大学生や教員ら40人を引率して参加してきた。超劣悪なスラムの暮らしの現実と「人は誰しも過ちを犯したり失敗をする。でもそれに気づけば必ずもう一度やり直すことができる」と信じて子どもたちに未来への希望を育もうとする人たちとの出会いを通して「自分とは何者なのか」「これからどう生きるのか」を深く考えさせられる旅である(※今年の「タイの『生き直しの学校』と絆を結ぶ旅2018」報告書ができましたので、関心がある人はクロスベイスに連絡してください)。
宋悟さんは下の娘が大池中学校で学んでいた頃からの知り合いだが、前職を辞めて浪人していた2016年にこの旅に参加してくれた。2017年4月にクロスベイスを立ち上げたとき、自身が参加して意義を確かめたこのツァーに毎年スタッフやボランティア学生を派遣することにしてくれ、さっそく今年若い女性スタッフが参加した。こんな経過から、おそらくクロスベイス関係者の中で65歳の私がいちばん高齢と思うが、アドバイザーとしてささやかながら手伝うことになった。
部落、障害者、在日コリアンはもちろん、さまざまな家庭環境のもとで貧困、生活保護、虐待、ひとり親、中学校まで誰にも相手にされなかった子、集団が苦手だったり対人関係がとりにくい子、勉強でもスポーツでもスポットライトが当たることがなかった子、困難な環境に傷つき、疲弊し、諦めきっている子、不登校、発達障害、LGBT……など自分の力で解決できない困難な課題を抱えた子どもたち、近年はベトナム人など多数の外国人の子どもたちが、信頼しうるおとなと、安心して頼れる居場所を必死になって求めている。
極端な高齢社会と人口減少が不可避なこれからの日本社会、そして学力偏重、競争と選別、管理と効率が重視される今日の学校教育のもとで、教育を学校と教員だけに押しつけ、任せて論評だけするのではなく、こうした子どもたちを懸命に支え続け、学校と地域、行政、福祉、医療をつなげるなどさまざまな働きかけをして解決に導いていこうとする「諦めの悪い」おとなが地域と社会にいることを見せていきたい。そして「おとなが楽しそうに生きていなければ、子どもも楽しいわけがない」と笑顔で子どもたちに向き合うことができる社会にしたい…。クロスベイスがそんな役割を担っていくことを期待すると共に、そんな温かい世の中を作って行けるように私ももうひと頑張りしようと思う。